魔王が引っ越してきた。第二話。
お昼の鐘が鳴った。
ちょうど正午。僕の意識も限界だった。眠い……。
あまりの眠さに実験も全く進んでなかった。なんか時間の無駄遣いをした気分だ……。夜は仕事があることを考えるとさっさと寝るべきかもしれない。眠れないから起きてたわけで、眠れるなら眠らない理由もないし、うとうとして薬ひっくり返したらしたら泣くしな……。お昼ごはんももういいや。
「うあーおやすみ」
誰にともなく挨拶して、僕は布団に倒れこんだ。安い布団だから固くて痛いが別にそんなことはどうでもいい。
あっという間に意識が沈んでいく。
睡眠に落ちる瞬間が僕は好きだ。ぷっつりと意識が途切れるのがいい。
しかし、そんな僕の至福の瞬間は控え目なノックの音で壊されてしまった。
こんこん……。と、本当にかすかな、何か用事をしていたら聴こえないほどの小さな音だ。眠りの瞬間、神経が鋭敏になってなきゃ僕は気付かなかっただろう。
「はいー?」
新聞の勧誘ならお断りだ。あんなもの研究室でただ読みできる。まあ、こんなに自己主張の弱い新聞のセールスもいないだろうが。僕が新聞の営業所長なら三日で首だ。
僕は眠りを邪魔されて不機嫌だったが、そんなことを表情に出さないように気合を入れる。
笑顔、営業スマイルってやつだよ。……僕が営業してどうするんだろう。
「ちょっとまってねー」
適当に声をかけながら起き上がる。よく考えると無視して寝ればよかったのかもしれない。こんな自己主張薄い知人は持ってないから、この訪問者が知り合いでそれを無碍に扱うってことはなかっただろうし。知り合いでもない奴に愛想をするほど僕はいいやつじゃないぜ。
しかし後の祭り。後悔先に立たずだ。僕はもう返事しちまったのだった。めんどくせえ。
「はい? 新聞なら間に合ってますよ?」
扉を開けると、黒髪の青年が立っていた。見たことのない顔だ。
軽く切りそろえた短髪に、清潔感あふれたごく普通の服を着てる、爽やかな青年である。しかし、爽やかさの中に……辛気臭さを感じる。……なんか全体的に。
彼が俯いてるからそう思うのだろうか。それだけ俯いてると僕の顔など見えてないだろうなあ……。
別に嫌なタイプではないのだが、近くにいると気が滅入るような、そんな人だった。
初対面の人に散々な言いようである。ごめん。
「……隣に引越ししてきました。その挨拶に……」
上の空になってた僕を正気に引き戻したのは、彼の声だった。
声はイメージどおり辛気臭い。
というか、消え入りそうなか細い声だ。
しかし、なるほど。内心手を打つ。引越ししてきたということはそうなんだ。この人が魔王なのか。
あんまりじろじろと観察するのもアレなので、僕も軽く挨拶した。
「どうも、302号室のクレスタです。よろしく。……魔王さんですか?」
まるで今はじめて知ったかのように、隣の表札を見ながら尋ねると、青年は小さく頷いた。
「……ええ」
「…………」
……間が持たない。赦してください。
「……よろしく」
テンポがずれてる……。
のんびり魔王の次の言葉を待つ間に、僕は考え事をすることにした。
そういえば、僕は引越ししてきた時引越し挨拶なんかしなかったなあ。まあこのアパートにはろくでもない人物――僕自身も含めてだ――しか住んでないから、挨拶するとトラブルに巻き込まれてた可能性が高い。そう考えると僕の選択は正解だろう。近所の一人は今は亡き詩人だしな……。
考え事は終わった。しかし魔王は何も言わない。
「……どうしました?」
「……帰ってもいいんでしょうか?」
…………。
どうしてくれようか。
殴ろうか? 考えた時、しかし魔王は少し変わったリアクションを取った。一歩下がったのだ。まさか僕の心を読んだのか!! その魔法が彼が魔王と呼ばれる理由なのか!? とか一人で盛り上がってみたが、そんなわけねえ。……一人ボケ突っ込みが過ぎるな、今日の僕は。
「……どうしました?」
今日二回目だ。『どうしました』。
見れば魔王は、俯いてた顔を上げ、僕の顔を見ている。いや……顔より上。髪か? 寝転んだ時寝癖がついてたか?
って、そんなんじゃないよな。
真っ青で血の気が引いてる。脂汗まで出てる。こりゃあ体調が悪そうだ。もしかして、声が小さく歯切れが悪かったのは体調不良か? そう考えるとわけのわからん言動にも納得がいく。上を見てるのは息が苦しくてあえいでるのだ。多分。
仕方ねえなあ……。
家の前で倒れられても猟奇殺人事件みたいでアレだし、送ってやろう。隣だしな。
果たして、魔王は素直に送られてくれた。
PR